恋愛における立ち位置の整理

 僕は恋愛したい。そしてできない。僕は非モテである。

 理想の恋愛というものがよのなかのどこかに存在すると、僕は思っている。好きな女の子と手を繋いだりしたいなあ、というまあ一部の(あるいは多くの)女性からするとキモイ欲求を持っている。ステレオタイプな、少女漫画的な恋愛に憧れている。僕が恋愛してみたいという理由の一つには、そういう憧れを打破したいっていう理由もあるのかも。できないけれど。

 恋愛することはすばらしい(あるいは人が恋愛するのは当然だ)、という空気が世の中には確かに存在する。それは僕の憧れの原因であり、また自分に対しての失望の原因でもあるのだ。僕は恋愛至上主義を支持しない。非モテを、というよりは恋愛できない僕を苦しめるものだと思うから。加えて恋愛するって選択をしない人まで何か大切なものが欠けてるみたいに勘違いして言う人が出てくるし。ばっかじゃないの?

 結局僕は自由な空気を求めるしかないのかな、と思う。恋愛におけるラディカルな自由というか、恋愛ネオリベ的な。うーん、恋愛ネオリベってDVすら自由だろって言いそうでアレかな。
 同性愛、あるいは両性愛についても、愛は素晴らしいものだから性別なんて関係ない、なんて理由で肯定する人を見ると複雑な気分になってしまう。まあ否定する奴よりずっとマシだと思うし、そういう空気が存在する場で同性愛を肯定させる、となると手段として否定しきれないのだけど。
 すばらしい恋愛なんてものを規範としておいてしまうと、規範から漏れた人とか(あるいはどんな形でも恋愛はすばらしいというのかもしれないが)、恋愛しない、できない人が辛いだけじゃあなかろうか。まあ、上に書いたようなキモイ規範を持っている僕はこういう空気を手助けしているわけだ。

 セックスと切り離された恋愛があっていいし、セットになった恋愛があってもいいし、勘違いの上に成り立つ恋愛があってもいい。駆け引きを楽しむような恋愛があってもいいし、もちろん恋愛しないという選択も尊重されるべきだ。
↑なんか想像力の貧困さを露呈してる感がありますが。

 まあようするに、恋愛が趣味になればいいのに、ってことかなあ。

 ・・・恋愛したくてできない人、どうしようか。僕はどうすればいいんだろう。趣味として認識されるようになったら、自分ができない趣味に執着する人は減ると思うし、できないことで劣等感を持つことは減るような気はするんだけれど。けれど僕はすでに持ってしまっている憧れを捨てられるんだろうか。無理かもしれない。

ここまで。

2/10追記
 一方でこういうのが本当の愛だみたいな言葉にも、うーんってなってしまう。それは愛じゃなくて束縛だよとか、独占欲だよみたいなのとか。愛ってなんなんだろう。自分の中でこれは愛だって決めちゃダメなんだろうか。良いとしたら、ちょっとゆがんでたとしても偽物だといえないんじゃないかなあ。もちろんそれがなにか悪い結果に結び付いたら、悪く言われるのは当たり前だけれど。
 よのなかに素晴らしいとされる愛はあるかもしれないけど、愛が素晴らしいわけではない。というか手放しで素晴らしいと言えるものを作るのがちょっときもちわるいです。
 すばらしい愛はすばらしい←こういうのをトートロジーとかいうのか

この世に真実の愛はあるのかい?