久しぶりに絵を描いてみたら

改めて自分の下手さに驚いた。
というか一時期はもう少しましだったと思いたい。←そんなことはない

そもそも人体を立体的に想像できないし、hitokaku見て練習すべきだなあ。
体が全然描けないのがダメだし、おそらく顔もだいぶやばい。
見たものをそのまま描くだけの力もないっていうね。

よし。明日からがんばるか。

気遣いっていうものは

自発的にする(あるいは、してあげる)ものだと思っていたけれど、どうやら最近は違うらしい。要するに、お前気遣いしてないだろ、気遣いするのが当然だろって言うひとたちがいるってことだ。そういう人たちはその気遣いを社会的なルールにしたがっているわけで、それが破壊するものに自覚的であるべきじゃあないかと思う。破壊するものっていうのは彼らがその口で言ってた美しい、自発的に人を気遣うような精神のことなんだけど。ルールにしてしまえばもう外面的なものしかなくなってしまうんでないかなあ?自覚的に言っているのなら、なんだかわけのわからない精神論を言う人よりはまともだと思うけど。

僕から見ると、気遣いしないのはゼロで、気遣いするのはプラス。
けれど誰かから見ると、気遣いするのがゼロで、気遣いしないのはマイナスなのだ。
そんなよのなか。

とりあえず30日ぶん日記をつけることを目標にするので、チラシの裏ってカテゴリーを作ることにします。

裁判員制度

裁判員制度の詳細について知ったときから妙な不快感をずっと感じていた。今まで放置していた。でも考えてみたら簡単な事だった。

多くの人は拒否する正当な理由をかんがえてた。憲法にもとづく良心の自由とか。
なんでそんなものが必要なんだろう?「今回は気分が乗らないのでいきたくない」なんてのは認められないらしい。拒否に正当な理由なんてものが必要なんだろうか?確かに倫理的に責められることはあるかもしれない(同調圧力とかもだね)。行政処分?とかいうペナルティがあるのはおかしくない?

なんで任意じゃないんだろうか。

僕はなぜブックマークしたか

バレンタインデーも何事もなく終わったし。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1217037.html

にてid:islecapeさんからidコールをいただいたので、日記(週記)代わりに。まあ死刑存続に反対するすばらしい意見っていうのはその辺に転がってるし、僕が何を書いたところでたいした影響はないからある意味気楽に書けていいかな。いや他のことであってももちろん気楽に書けるけど。

とりあえずそこにブクマしたのは元記事のコメントに高校生の意見を馬鹿にするものが目立ったから。きちんと考えてお前らは死刑存続に賛成という結論を出したのかと。出したとして、自分たちの調べられる範囲で調べて、考えて答えを出した高校生を馬鹿にできる根拠は?みたいな反感が元。(まあプレゼンはコピペかもしれないんだけどね!)
さんざん言われてるけど、終身刑はあるいみで死刑より酷いともとれる。高校生の議論の結論は厳罰化と捉える事もできなくはない。悪意的に見てみると、生涯塀の中で過ごしていくしかないという罰を与えて罪の重さをずーーーーーーーーっと死ぬまで考えさせる、ってことだよなあ。やっぱ終身刑には反対。冤罪の場合に死ぬ前に判明したらごめんなさいされて社会復帰できるかもくらいの違いしかないような。死刑廃止へのステップとしてはアリだと思うけれど。

ちなみに僕の立場は、権力による人権の制限は最小限であるべきだ、ってものだ。死刑を含む終身刑には基本的に反対。基本的に、というのは抑止効果が著しければ認めるかもしれないということ。幸運な事に(あるいは不幸な事に)そういった話は聞かないけど。僕が気になるものをほかに挙げるとすれば、刑務官に肩代わりさせる倫理性とかそのあたりだ。

死刑制度については、受刑者を殺すことには制度を維持している、あるいは変える事ができない人間の責任がある、とかそういう事をそのうち書きたいなと思ってる。希薄になって見えづらい責任は無いわけじゃない。

恋愛における立ち位置の整理

 僕は恋愛したい。そしてできない。僕は非モテである。

 理想の恋愛というものがよのなかのどこかに存在すると、僕は思っている。好きな女の子と手を繋いだりしたいなあ、というまあ一部の(あるいは多くの)女性からするとキモイ欲求を持っている。ステレオタイプな、少女漫画的な恋愛に憧れている。僕が恋愛してみたいという理由の一つには、そういう憧れを打破したいっていう理由もあるのかも。できないけれど。

 恋愛することはすばらしい(あるいは人が恋愛するのは当然だ)、という空気が世の中には確かに存在する。それは僕の憧れの原因であり、また自分に対しての失望の原因でもあるのだ。僕は恋愛至上主義を支持しない。非モテを、というよりは恋愛できない僕を苦しめるものだと思うから。加えて恋愛するって選択をしない人まで何か大切なものが欠けてるみたいに勘違いして言う人が出てくるし。ばっかじゃないの?

 結局僕は自由な空気を求めるしかないのかな、と思う。恋愛におけるラディカルな自由というか、恋愛ネオリベ的な。うーん、恋愛ネオリベってDVすら自由だろって言いそうでアレかな。
 同性愛、あるいは両性愛についても、愛は素晴らしいものだから性別なんて関係ない、なんて理由で肯定する人を見ると複雑な気分になってしまう。まあ否定する奴よりずっとマシだと思うし、そういう空気が存在する場で同性愛を肯定させる、となると手段として否定しきれないのだけど。
 すばらしい恋愛なんてものを規範としておいてしまうと、規範から漏れた人とか(あるいはどんな形でも恋愛はすばらしいというのかもしれないが)、恋愛しない、できない人が辛いだけじゃあなかろうか。まあ、上に書いたようなキモイ規範を持っている僕はこういう空気を手助けしているわけだ。

 セックスと切り離された恋愛があっていいし、セットになった恋愛があってもいいし、勘違いの上に成り立つ恋愛があってもいい。駆け引きを楽しむような恋愛があってもいいし、もちろん恋愛しないという選択も尊重されるべきだ。
↑なんか想像力の貧困さを露呈してる感がありますが。

 まあようするに、恋愛が趣味になればいいのに、ってことかなあ。

 ・・・恋愛したくてできない人、どうしようか。僕はどうすればいいんだろう。趣味として認識されるようになったら、自分ができない趣味に執着する人は減ると思うし、できないことで劣等感を持つことは減るような気はするんだけれど。けれど僕はすでに持ってしまっている憧れを捨てられるんだろうか。無理かもしれない。

ここまで。

2/10追記
 一方でこういうのが本当の愛だみたいな言葉にも、うーんってなってしまう。それは愛じゃなくて束縛だよとか、独占欲だよみたいなのとか。愛ってなんなんだろう。自分の中でこれは愛だって決めちゃダメなんだろうか。良いとしたら、ちょっとゆがんでたとしても偽物だといえないんじゃないかなあ。もちろんそれがなにか悪い結果に結び付いたら、悪く言われるのは当たり前だけれど。
 よのなかに素晴らしいとされる愛はあるかもしれないけど、愛が素晴らしいわけではない。というか手放しで素晴らしいと言えるものを作るのがちょっときもちわるいです。
 すばらしい愛はすばらしい←こういうのをトートロジーとかいうのか

この世に真実の愛はあるのかい?

ころしてでも うばいとる

そんなことは当たり前だ、わかってるんだよと言われる気がするけれど。

肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090117/1232197538
トラックバックとかいう機能を使ったことがないので、なにかダメだったらごめんなさい。


食事の前に「いただきます」と言うのは基本的なマナーであると同時に生産者や自然、奪う命への感謝をしめすことだっていうのは、広く浸透している感覚だと思う。僕はこの感覚を家庭、幼稚園、小学校、あるいはテレビなんかで身につけたような気がする(どれが決定的なのかはわからない)。
ここで、「奪う命への感謝をしめすもの」ということは命は大切なものであり、無益な殺生はよくなく、生きるためにしかたなく奪うものだという倫理と一緒に教育されることが多いと思う。上の記事への反応は多くの人がその倫理を持っていることを示しているのではないかなあ、と思った。

この倫理は言い換えれば、有益な殺生ならばしてもよい、あるいはそこまでではないにしろ、生きるための殺生ならば仕方ない、ということではないだろうか。ブクマコメに書いたのだけど、食べるための殺生ならしてもよいと認めて、食べているなら、なぜ食べるために殺すことができないんだろう。倫理的には殺せない理由がない、と思う。コメント欄でのやり取りで経験不足じゃないかという話があったけど、その通りかもしれない。でも、無益な殺生はよくないって考えてると経験を積むのは難しいかなあ。そういう場合は魚や鶏なんかの有益な殺生で積むしかないのかも。

うーん・・・それとも仕方なく奪っているんだっていう感覚が殺すことに後ろめたさを感じさせるんだろうか。殺すことはできる、でも後ろめたいじゃあだめなんだよなぁ。仕方なく命を奪っているとするならそれは植物についても一応同じではあるんだけど、動物と植物に明確に線を引く人は多いしなぁ。
あ。もしかしたら、植物も動物と同じ命だよって人は後ろめたさを感じないかも。

ところで、ブクマで書いた植物も命だっていうのが的外れっていうのはまずほとんどのすべての人が生きるために(平気で)殺すことを認めるだろうって点がまず一つ。動物が食卓に並ぶまでにどうやって育つかって点が一つ。命や生産者に感謝するのなら、そこまで考えられるはず。
植物を殺すのが無理な人は、節度をもって食べるしかないんじゃないかなあ。植物をふつうに食べるのはマッチョだと思いながら。

頑張って思ったことを書いてみたんだけど、やっぱ何か書くって難しいですね。普通に毎日書いてる人とかすごいわ・・・

はじめに

2009/01/17
ついにはてな村にやってきました。

興味のある議論を見ながら考えを深めていけたらいいなあ、と思っています。すぐ飽きそうな気もします。コメントとかにとびこんで行ったほうがいいのかなぁ。やっぱり少し怖いかも。