ころしてでも うばいとる

そんなことは当たり前だ、わかってるんだよと言われる気がするけれど。

肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090117/1232197538
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食事の前に「いただきます」と言うのは基本的なマナーであると同時に生産者や自然、奪う命への感謝をしめすことだっていうのは、広く浸透している感覚だと思う。僕はこの感覚を家庭、幼稚園、小学校、あるいはテレビなんかで身につけたような気がする(どれが決定的なのかはわからない)。
ここで、「奪う命への感謝をしめすもの」ということは命は大切なものであり、無益な殺生はよくなく、生きるためにしかたなく奪うものだという倫理と一緒に教育されることが多いと思う。上の記事への反応は多くの人がその倫理を持っていることを示しているのではないかなあ、と思った。

この倫理は言い換えれば、有益な殺生ならばしてもよい、あるいはそこまでではないにしろ、生きるための殺生ならば仕方ない、ということではないだろうか。ブクマコメに書いたのだけど、食べるための殺生ならしてもよいと認めて、食べているなら、なぜ食べるために殺すことができないんだろう。倫理的には殺せない理由がない、と思う。コメント欄でのやり取りで経験不足じゃないかという話があったけど、その通りかもしれない。でも、無益な殺生はよくないって考えてると経験を積むのは難しいかなあ。そういう場合は魚や鶏なんかの有益な殺生で積むしかないのかも。

うーん・・・それとも仕方なく奪っているんだっていう感覚が殺すことに後ろめたさを感じさせるんだろうか。殺すことはできる、でも後ろめたいじゃあだめなんだよなぁ。仕方なく命を奪っているとするならそれは植物についても一応同じではあるんだけど、動物と植物に明確に線を引く人は多いしなぁ。
あ。もしかしたら、植物も動物と同じ命だよって人は後ろめたさを感じないかも。

ところで、ブクマで書いた植物も命だっていうのが的外れっていうのはまずほとんどのすべての人が生きるために(平気で)殺すことを認めるだろうって点がまず一つ。動物が食卓に並ぶまでにどうやって育つかって点が一つ。命や生産者に感謝するのなら、そこまで考えられるはず。
植物を殺すのが無理な人は、節度をもって食べるしかないんじゃないかなあ。植物をふつうに食べるのはマッチョだと思いながら。

頑張って思ったことを書いてみたんだけど、やっぱ何か書くって難しいですね。普通に毎日書いてる人とかすごいわ・・・